朗読音声<10分32秒>

第12章 切腹・敵討ち

 

 ◆ 腹に魂が宿るという考え方

 

 切腹について、

外国の方々は、馬鹿げた文化だと断罪するかもしれませんが、

ブルータスが一世一代の大勝負に負け、自害する場面や、

カトーが辞世の句を遺して腹に剣を刺す場面などを見て、

嘲笑する者はいないと思います。

 日本人にとって、切腹という死に方は、とても崇高なものであり、

そこには、様々な徳、優しさ、偉大さが入り交じり、

新たな命の始まりさえ覚えるものであったのです。

イエスが十字架に散ったはものの、

新たな出発を以て世界をここまで凌駕した事と通じる概念です。

 

 切腹が非合理的なな事ではない根拠は、

今述べた、海外の概念との比較論に留まるものではありません。

創世記43章30節には、

「ヨセフは弟なつかしさに心がせまり、

 急いで泣く場所をたずね、へやにはいって泣いた。」

とあり、

欽定訳聖書では“心がせまり”に“腸”の表現が取られているのですが、

腹部に魂が宿る概念は、

聖書文化にも通じるものなのです。

 

 切腹には、

わが魂が宿る腹を裂き、そこに穢れがあるか潔白であるかを、御覧に入れよう。

という意味があったのです。

 私が、自殺を

宗教的にも道徳的にも認めているという事では決してありませんが、

名誉を最重要視する侍にとって、切腹には、

この様な背後的な意義があったという事をご理解いただければと思います。

 

 

 ◆ 儀式としての意義も持っていた切腹

 

 武士道に於いて、切腹による死は、

名誉に関する重大な問題についての、

最終解決方法としても用いられるものでした。

 ソクラテスは、

たとえ国家の命令が過ちでありながらも、

国家の命令に従って、毒杯の数滴を神に捧げ、自らその命を絶ちましたが、

それに対して自殺者という汚名を着せる者は居ないでしょう。

 

 侍にとって、切腹とは、

単なる自殺の一手段としてあったものではなく、

罪の清算、詫び、名誉の挽回、潔白の証明、朋友を救う為の儀式であったのです。

その為、

切腹は決して、狂気に満ちたものでは無く、

平静な心情と、立ち居振る舞いを極めた者でなければ、

とても完遂出来るものではありませんでした。

これらの特徴から、

切腹は、侍に相応しい事として確立されたのです。

 

 

 ◆ 切腹の様子

 

 イギリスの外交官ミットフォード氏が、

使節団として、切腹の現場に招かれた時の状況です。

「それは、寺院の本堂で、荘厳で神秘的な空間の中で行われていたものでした。

祭壇の前に綺麗な畳があり、その上に赤いじゅうたんが敷かれ、

その左側に、日本人の検視7人、右側に我々使節団7人が座りました。

まもなく、麻の裃姿の滝善三郎と、介錯人と、

3人の付き添いの役人が入場しました。

介錯人とは、処刑人とはニュアンスが違い、

介添え役としての立ち位置であると言える存在で、

今回は、善三郎の弟子が、

その剣術を見込まれて任命されました。

付き添いの役人が持つ、捧げものを置く為の台には、

白い紙に包まれた30cm程の脇差が乗っていて、

それを善三郎が受け取ると、

祈る様に両手で頭の上まで持ち上げてから、自分の前に置きました。

そして善三郎は、

神戸に於いて、外国人へ発砲命令をした罪を負って切腹する旨の言葉と共に、

上半身だけ裸となって、

切腹後、後方に倒れないように両袖を膝の下に入れ、

脇差を眺めた後、切腹しました。

左下の腹部に突き刺した後、ゆっくり右に引き、

その後、刃の向きを変えてやや上に切り上げました。

この間、善三郎の表情は一切変わっていませんでした。

脇差を腹から抜いた後、体を少しばかり前に傾け、

介錯人によって斬首されました。

介錯人は一礼し、白紙で刀に付いた血を拭いて、退場しました。

すると、付き添いの役人が我々7人の使節団の前に来て、

滝善三郎の切腹の儀式が完遂されたことを検分する様話してきました。

この様にして一連の事は終わり、我々は寺院を後にしました。」

 

 切腹について、もう一つご紹介したいと思います。

八麿の物語です。

 河津左近24歳、内記17歳の二人が、

父の仇を討つべく、徳川家康の所へ忍び込むも、捕まってしまいました。

家康はその報告を受けるや否や、

自分の命を大胆に狙った勇気に感銘を受け、

謀反を起こした一族の男子は皆殺しにされる掟があったのですが、

最も格式高い、切腹の儀を河津家に許したのです。

この運命は、左近と内記の弟、8歳の八麿も共にすることとなりました。

切腹の際、

左近は、斬り損じのない様に見届けるからと、八麿から切腹するよう言いますが、

まだ幼い八麿は、

自分は切腹を見た事が無いので、兄たちのを見て習い、

それに続くと言ったのです。

それでこそ、河津家の子供だと大層に兄たちは喜び、

2人の兄は説明をしながら切腹を行いました。

両側に座る兄たちを見届けた八麿は、

その手本通りに、立派に切腹をやり遂げました。

 

 

 ◆ 武士道精神から導き出される本来あるべき死生観

 

 ここまで切腹についてご紹介しましたが、

この切腹が名誉な事として崇められる様になると、

血気にはやる者によって、その乱用が多発する様にもなってしまいました。

 しかし、

武士道精神では、その様な無意味な死に急ぎは、卑怯者として見做されたのです。

山中鹿之介は、敗戦の中、武器もボロボロで、山の中一人で飢えていました。

ブルータスであれば、この様な状況になれば自害する事でしょうが、

真の侍、鹿之介は、この状況で死ぬ事は卑怯者と捉え、

中世カトリックの暴虐に、不屈の精神で挑んだクリスチャンのごとく、

「憂きことの なほこの上に 積もれかし

 限りある身の 力ためさん」

という歌を詠んで、自らを奮い立たせたのです。

この様な

忍耐と、正義の心を以て、何事にも負けずに立ち向かう「気概」こそ、

武士道精神の本質であると言えます。

孟子に言わせれば、

「天が人に重大な任務を与えようとするときには、

 必ずまずその人の精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、

 その肉体を飢え苦しませ、その行動を失敗ばかりさせて、

 空回りするような大苦境に陥らせるものである。

 それは、天がその人のこころを鍛え、忍耐力を増大させ、

 大任を負わせるに足る人物に育てようとしているからである。」

という事なのです。

死を恐れない勇敢さは大切ですが、

時として、死ぬ事よりも生きる事の方が困難な場合、

真の勇敢さを持つ者であれば、生きて勝利する道を切り拓くという事です。

天海和尚が言った

「普段良い事を言う人間でも、死んだ経験の無い侍は、肝心な時に逃げる」

「魂に於いて一度死を超えた者には、槍も矢も通らない」という言葉は、

イエスが説いた

マタイによる福音書16章25節

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、

 わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」

という教えに導いてくれるものです。

この事から、

どの様な道徳観念も最終的に到達する所は、

一つの絶対的な真理であるという事を知ることが出来ます。

 

 以上の事から、

切腹が乱用された事実はあったとしても、

その切腹自体は決して忌むべきものでも、野蛮なものでもなかったという事を

ご理解頂けた事と思います。

 

 

 ◆ 正義の天秤として用いられた敵討ち・復讐

 

 切腹と、ある面姉妹的な位置づけにある敵討ち・復讐の風習ですが、

ここに如何なる美点があったのかを見ていきたいと思います。

 例えば、

結婚という概念の無い原住民の中に於いては、姦淫は罪として定義されません。

そこでは、

伴侶の嫉妬心が、不倫を防ぐ防波堤の役割を担う事になります。

また、

裁判制度の無い地域に於いては、

殺人が犯罪として立件される事はありません。

この場合も、

殺された家族が抱くであろう、復讐心に対する恐れが、

犯罪の抑止力となるのです。

世界的にも、「親の仇」というものは、美談として扱われるのが常でした。

日本に於いては、それに「主君の仇」が加わる事でしょう。

 ある面、単純で子供染みた、

「目には目を歯には歯を」という概念によって、

まるで、数学の等式の様に、

両者の項が同じ様になるまで、人間は、やり残した感覚に陥るのです。

 聖書に記される、

本心の愛を根拠とした“ねたむ神”の観念では、

ある意味でのこの復讐という概念は、

どこまでも、神を中心とするものとなりますが、

武士道に於いては、

人間社会に於ける一種の道徳法廷として、

この復讐・敵討ち制度が用いられ、

その用途は、個人的感情によるものではなく、

あくまでも正義に基づいて行われてこそ、評価されるものであったのです。

例えば、

スコットランドの政治家、ジャームスハミルトンが、

妻の墓から土を取り、常に持ち歩き、

妻の敵討ちの為の励みとした、自己中心的復讐心は

武士道に於いては軽蔑されるものでした。

 

 しかしこれは、

近代刑法が整備されたことによって、

その役割は、国家権力としての裁判と警察に移行し、

刀文化は必要ないものとなりました。

もし、

これまでお話した敵討ちと切腹が、狂乱に満ちたものであれば、

この社会体制が整備された事だけで、

突如として消え去った事の説明が付きません。

 私は今、

全く変わった形として登場した「自殺」、

その数の急増を危惧しています。

 

 単なる自殺と、切腹は、全く中身の異なるものでした。

ある面血生臭い、日本独特の刀文化が、

実は、道徳観念の縦軸を担ってきた事をご理解頂けた事と思います。

だからこそ、刀について、

「武士の魂」とまで言われる程になったのです。

 

 


 

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