朗読音声<13分44秒>

第14章 武士道が示す女性の在り方

 

 ◆ 家庭的であり勇敢である事が女性の理想像

 

 女性の直感的性格は、時に矛盾の典型ともされますが、

それこそが、

男性の数理的思考を超越した特長に起因するものであると言えます。

「妙」という字には、不思議で神秘的という意味合いが含まれますが、

これは、

「女」と、若いという意味の「少」が合わさったものとなっており、

女性の美観や繊細な思考を意味するものとなっています。

これらの分野は、

男性の思考回路ではなかなか理解しにくいものがあると言えるかもしれません。

 

 日本に於ける女性に対する基本的な考え方は、

「婦」という漢字が

箒を持った女性を表している事からも、

他国と同様に家庭的であると分かります。

ちなみに、英語の

妻(wife)は、織り手(weaver)が語源で、

娘(daughter)は、サンスクリット語の乳搾り(duhitar)から来るものです。

 武士道とはそもそも、

男性の道徳観念として出来たものでありましたが、

その観念が、武家を中心に、女性にも形を変えて適用されるようになると

自ずと若い娘たちにも、

忍耐力、精神力、武術などの訓練が行われる様になりました。

しかし、

これの活用は、戦場ではなく、

家族を守る事に目的があり、

男性の武士道に於ける、主君への忠義は、

夫に対する忠誠と、我が身の純潔を守る精神に形を変えて適用されました。

 

 

 ◆ 女性の忠義の極致・純潔を守る覚悟

 

 女の子は成長すると、親から

もし、自分の貞操を守れない状況に陥ってしまったら、と言って

懐刀を与えられるものでした。

具体的にどの様にすれば自害する事が出来るのか、

また、屍が無様にならない様に、死後も姿勢を保つ方法など、

その詳細まで具体的に教えられていました。

自殺を認めないクリスチャンから見ても、

これを責めようという事にはならないでしょう。

 江戸時代の銭湯の仕組みや、一部の事案や噂を取り上げて

日本人は、貞操観念を持たない野蛮な民族と見る風潮がありますが、

それは全く逆で、

日本人、特に侍の妻たる者は、

自らの命以上に自身の貞操を守り抜いたのでした。

 

 鳥居与七郎の妻は、

暴行から逃れられない状況になった時、

家族への手紙だけ書かせてくれたらこの身を委ねると言い、

手紙を書いたのですが、

書き終わった途端に井戸に向かって走り出し、身を投げたのでした。

手紙の最後には

「世にふれば よしなき雲も おほふらん

 いざ入りてまし 山の端の月」

と、自身を月に喩えて、

辱めを受けるくらいなら死ぬ、という覚悟が綴られていたのです。

 

 

 ◆ 上品な言動や、芸事を身に付ける意味

 

 ここまで述べてきた様な、ある面男性的な武士道精神だけが

女性たちに求められるものではありませんでした。

上品な言動や、芸事を身に付ける事も、

大切な事とされ、子供のころから様々な稽古を付けられるものでした。

 我が国日本に於ける、これら芸事の目的は、

超絶技巧や、芸術的高みをただひたすらに目指すようなものではなく、

その目的は、

日常に彩りを加えられれば十分とされるもので、

西洋の様な、贅沢や見栄を張る道具ではありませんでした。

そして何より、

美しい芸事の一つ一つを身に付ける事には、

自ずと、精神の修養も伴う、という概念が中心にあったのです。

芸事は決して見世物ではなく、

あくまでも家庭内の楽しみとしてあるものであり、

人前で披露する事はあっても、

それは女性の務めとして客をもてなす、その一環に過ぎないものだったのです。

 

 

 ◆ 自体責任で身を捧げる女性たち

 

 日本の家庭に於いて、女の子への教育の根本にあるものは、

如何に家庭を治めるべきか、という所に集約されるものでした。

芸事を身に付ける事もしかり、

種火を絶やさない事もしかりです。

種火が消えてしまったら、近所の家に貰いに行くものでしたが、

それは妻として、家庭として恥ずかしい事とされていました。

昼夜を問わず、

父、夫、息子たちの為に、

ひたすら犠牲の道を率先するのが日本人女性たちの本分であり、

その一生に於いて、独立する事はなく、常に何かに仕える人生で、

その目的観は常に、家庭を守る事に一貫していました。

 木村重成の妻は、

豊臣秀頼公の為に死をも厭わず戦おうにも、家に自分が残っていては、

生きて帰りたいという雑念が沸いてしまうのではないかと案じ、

遺書をしたため、自害した、という事がありました。

夫の助けになるのならば、妻はどこにでも赴き、

邪魔になるなら、後ろへ退く、

そういう精神を持っていたのが、日本人女性の家庭に於ける武士道だったのです。

 

 

 ◆ 女性は男性の奴隷ではなかった。「内助の功」の精神

 

 男性が主君と国家の為に、死をも厭わない様に、

女性は、家庭の為に犠牲となる、

という事が、立派な人とされていました。

この「自己犠牲」の境地を理解する事が、

日本人の在り方、特に女性を理解する唯一の糸口と言っても過言ではありません。

 この自己犠牲精神は、

男性が、その主君の奴隷状態では無かった様に、

女性も、男性の奴隷状態にあったわけではありません。

この事を的確に表現したものが「内助」なのです。

夫の為に、内側から支え助けるのが女性であり、

夫は、主君を支え、助ける。という構造がありました。

男女ともに、主体に対する、対象としての犠牲精神を堅く持っていたのです。

 この武士道精神は、

仕える相手、主体が、あくまでも地上の人間という次元の話ですので、

万民がみな、霊界の神に対して一律に責任を負っているという真理を説いた

イエスの教えには劣るものではありますが、

概念の特徴としては、

武士道が説く犠牲精神は、

このイエスの教えに通じるものがあると言えるのではないでしょうか?

 

 昨今、欧米の女性解放運動家が、

日本人女性は悪しき風習を絶ち、自由になれ!と叫んでいましたが、

ここまでで述べてきた自己犠牲精神を持つ日本人は、

その西洋の軽はずみな活動に賛同する事は無いでしょう。

そもそも、

うわべだけの、作られた活動で、

虐げられている者の地位が本質的に向上するとは言えません。

それに、彼らが言う理想がすべて実現したとして、

それは、日本人女性たちが昔から代々受け継いできた、

あの愛らしくおしとやかな性質が、この世から消えてしまう事と

釣り合いの取れるものなのでしょうか?

 古代ローマの崩壊は、

女性たちが家庭を顧みなくなった、道徳的退廃によって起こった事でした。

この様に、

その結末は歴史が既に証明しているのです。

欧米の活動家たちは、

日本人女性たちの反乱が、この国の歴史的発展に繋がるものだと

本当に保障出来るのでしょうか?

この事は、余りにも重大な問題です。

変化というものは、

誰かが作為的に、策略を以て引き起こさずとも、

もし本当に必要であれば、自然発生的に起こるものなのです。

 

 

 ◆ 武士階級で女性たちが持っていた地位

 

 日本に於ける女性の地位は、

西洋人が言う様に、本当に最悪なものであったのでしょうか?

 

 弱者である女性が、封建社会に於いてどの様な扱いをされるかについては

各所で様々な議論がされてきたことですが、

ハーバートスペンサー氏が述べた、一つの結論としてあるのは、

「封建制・軍事社会では必然的に女性の地位は低くなり、

 産業化された社会に於いては女性の地位は自然と改善されていく」

というものです。

欧州の騎士道に於いては、

レディーファーストの、ジェントルマン文化があったと見られていますが、

イギリスの多くの歴史家、ギホンやハラムなども言っている通り、

騎士道に於ける女性に対する表面的敬意は、下心を持っていたもので、

本質的に女性の地位が高かったとは言えません。

 

 日本に於ける社会階級は、

貴族階級、武家階級、一般庶民(農・工・商)の3つに分類できますが、

これらの内、スペンサー氏が指摘した軍事社会である武家階級は、

日本に於いては200万人程度に過ぎない一部であり、

貴族と庶民社会では、基本的に男女の差は目立たないものでありました。

ちなみに、日本の貴族社会でこの様な形になったのは、

ある面、暇を弄ぶ階級でもあったことから、全体として性格が女性化したのが

背景としてあったと言えます。

この様な観点で見ると、

スペンサー氏の言う女性の地位問題があったのは、

我が国日本に於いては、ごくごく一部であったと言えます。

 

 しかし、

日本の武家社会に於ける男女の差異は、

果たして、スペンサー氏や西洋学者の人々がいう様な、

「不平等」と言えるものだったのでしょうか?

 本質的に物事を捉える目があれば、

それぞれの「位置」と、その中身を満たす事により生じる「価値」を軸に

社会が回っている事に気づく事でしょう。

アメリカ独立宣言も、万民は平等に創造されていると謳っていますが、

それが、

知能や身体的な所まで同じと言っている訳ではありません。

法律の元で、万民は平等であると言ったに過ぎません。

社会に於いて本当に完全な平等と言える場面は、

法廷や投票などの、ごくごく限られた場面であるのです。

 では、

法律の前に万民が平等であれば、それは理想の社会であるのかと言ったら、

それは余りにも安直でしょう。

その様な人為的な枠組みには、

人間それぞれが生まれ持つ「個性の価値」が含まれない為です。

男性と女性はそれぞれ、

この地上に於ける使命を全うする為に、

一人一人が多種多様な要素を備えています。

男女の地位について、それを計る基準は、

一面的なものでは無く、複合的なものでなければなりません。

 その複合的視点として武士道が用いたのが

「家庭」と「戦」という2つの視点でした。

武家社会に於いて、戦の視点では女性は重要視されませんでしたし、

女性を戦に駆り出すなどもっての他です。

この点では男女不平等と言えば、そうでしょう。

しかし、

家庭に於ける女性の地位は、高いものであり、最大の尊敬を受けるものでした。

夫が戦に出る際には、家庭内に於ける一切の権利は、母に委ねられたのです。

子供の教育はもちろん、家の防備まで、多岐にわたります。

 

 生半可な日本文化理解で、「愚妻」という一言を取り上げ、

日本の女性の地位は悲惨なものであると言う海外の論調がありますが、

これについては、

「愚父」「豚児」「拙者」が今日でも広く使われている事を示せば簡単に

間違いであると証明できます。

 私は時折、

クリスチャンを自称する西洋人よりも、

日本人の結婚観こそが、イエスの教えに肉薄したものではないかと感じます。

創世記2章24節に

 「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」

と記されている様に、

夫婦は一体であるべきなのです。

しかし、

西洋に於いては、徹底した個人主義が根付いており、

夫婦はそれぞれ別人格であるという観念からなかなか抜けられず、

夫婦で争う時も、2人それぞれの権利が認められています。

 それ故に、

日本人が自分の妻を褒めるのは、

自分を褒める自画自賛と同じ意味となってしまいますので、

「愚妻」

そして、「愚父」「豚児」「拙者」という概念が成り立つのです。

これらの呼び名が、決して礼を欠いているものではなく、

むしろ、礼を極めた先にこの概念が生まれる事をご理解いただければ幸いです。

 

 

 ◆ 倫理観が導く日本人の愛情関係

 

 欧米に於ける、男女に関する道徳観念は、

男性よりも女性の数が少ないという

繁殖に係る情勢に起因するものでありましたが、

日本に於ける男女観は、

本書冒頭で述べた「五倫」つまり、人と人は魂で結びつくという概念、

道理に起因するものでした。

 ここまで、五倫については、

忠義の内容、主君と家臣の関係を特筆し、

その他は付随的に扱ってきたのですが、

それは、

武士道に於ける最も主軸となるのが忠義であったのと、

その他の人間関係は、自然に培われるものであり、万民に共通する為でした。

 

 万民共通と言っても、

武士道の文化によって増幅された愛情関係がいくつかあります。

一つは、男女の愛情です。

「男女七歳にして席同じくせず」や、

女性が命に代えてでも守った貞操故に、

男女の出会いと愛情は、一層神秘的なものとなり、高潔なものとなったのです。

また、

男性同士の愛情関係、絆も、ひときわ輝くものでした。

これは時には、異性恋愛よりも強烈なものがあり、

ギリシャ神話のダモンとフィシアスや、アキレスとパトロクロス、

聖書に記されるダビデとヨナタンの絆の物語に

勝るとも劣らない男同士の物語が

日本には数多くあります。

 これらの様な、

武家階級の縦軸となっていた武士道は、侍のみならず、

日本国民全体に、様々な形で行き渡り、

日本独特の伝統文化を形成したのです。

その詳細について、次項でお話したいと思います。

 

 


 

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