朗読音声<10分46秒>

第2章 武士道の成り立ち

 

 ◆ 神道と仏教が一体となり、武士道が築かれた。

 

 仏教は、例えば災害の被害などに遭っても、

生に執着せず、その試練を甘んじて受け入れる、運命に従う心を培いました。

剣術の師匠、柳生但馬守宗矩(ヤギュウタジマノカミムネノリ)は、

その弟子、徳川家光に対して、

「私が教えられるのはここまでだ。以降は禅の教えに譲る。」

と言ったそうですが、

ここに大きな教訓があります。

仏教に於ける禅とは、言語表現の範囲を超えた世界に瞑想で到達しようとするものであり、

これについて、私は、

あらゆる現象の源にある、原理的な絶対的存在と、自分を調和させようとする働きであると捉えています。

この様な視点で見れば、禅はある面、宗教的教義を超えていると言えます。

その絶対的存在を認識し得た先に、あらゆる世俗を超越して、「新天新地」を知ることが出来るようになる。というものなのです。

 

 武士道の形成に当たって、仏教・禅が足りなかったところは、

神道が補いました。

主君への忠誠心、祖先を敬う心、親孝行の心は、

神道から来る考え方です。

これによって、武装階級の傲慢な性質に、

忍耐の心や、謙譲心が備わり、武士道となったのです。

 

 実は、神道の教えに、「原罪」という概念はありません。

堕落前の人間生来の善良さ、神に似た純粋さをどこまでも信仰し、

神の意志が、その人間の魂に宿るものとして崇めるものなのです。

神社に赴くと、装飾品が他の宗教施設と異なって少なく、シンプルである事に皆様も気づかれる事と思います。

主要なものと言えば、奥殿にある1枚の鏡くらいです。

なぜ鏡が置かれるのでしょうか?

鏡には、自分の心を映している、という意味があり、

平静で澄んだ心で参拝した時、神に似た純潔な自らの心がそこに映し出され、

それこそが神の姿である。という捉え方なのです。

この日本の参拝は、

古代ギリシャの「汝、自身を知れ」の教えと共通するものがあります。

外面的な事ではなく、

どこまでも内面を追及する、道徳的性質を顧みる内省の事こそが本質です。

ドイツの歴史学者モムゼンは、

「ギリシャ人は礼拝の際に天に目を向け、ローマ人はベールで顔を覆う。」

と言っており、

これは、

黙想的な祈りと、

内省的な祈りの違いを的確に指摘しています。

 

 神道の「自然崇拝」の概念は、

我が国日本の国土に対する愛着、自然愛の心を培うものであり、

「先祖崇拝」の概念は、

家系を辿っていくと、どこかで繋がっている皇室を、国民全体の先祖とし、

崇拝する感情を培うものとなっています。

海外の人々にとって、国土は

資源採掘や農耕など、利益を取る舞台として扱われがちですが、

日本に於いては、先祖の霊が宿る神聖な祭壇と捉えられていたのです。

 これにより、天皇陛下のご存在は、

私たち国民にとって、単なる法治国家の長、文化の保護者という次元を超えた

あまりにも貴重な存在となったのです。

言うなれば、天皇陛下は、

この世に於ける天の代表者として日本人は認識してきたのであり、

天の力と、慈悲の心を持つ大いなる存在なのです。

 イギリス王室について、フランスの教育者ブートミー氏は著書の中で

「それは権威の現れのみならず、

 国民の創始者にして象徴である。」

と言っていますが、

これが本当であるのであれば、

日本人はその考え方に親しみを覚えるものであり、

同時にこの概念は、日本のご皇室に於いては

何倍にも強調すべき概念であると言えます。

 

 神道教義に於ける、2大特徴と言えるものは、

「愛国心」と「忠誠心」になります。

アーサーメイクナップ氏は著書の中で、

「ヘブライ文学で語られる内容について、

 神を語っているのか、あるいは自国なのか、国民か、

 エルサレムなのかを見分けるのは困難だ」

と指摘しましたが、

この様な混乱は、日本に於いてもあると言えます。

神道は、理念体系としては曖昧な面がありますから、当然の事と言えます。

神道は、体系化されたり、教義を持つようなものではありません。

教義というよりも、情念という様な形で国民一人一人に作用するものでした。

キリスト教と違い、

神道は、信仰上の条件や取り決めは無く、

生活について一つの基準を与えたに過ぎないものでありました。

 

 

 ◆ 孔子の教えから広がった武士道の道徳観念

 

五倫と呼ばれる、君臣、親子、夫婦、長幼、朋友の孔子の教えが

武士道に於ける道徳的教義の礎となりました。

これらの内容は、儒教が日本に流入する前から、日本人の本能としてあったものですから、

教訓としては、再認識したに過ぎないものではありましたが、

世間のあらゆる習わしに通じた孔子による、政治道徳に焦点を当てた

貴族的・保守的な教えは、

武士階級が求めるところに見事に適応したのです。

 続いて、孟子の教えも、

武士道に対して、さらに大きな権威をもたらしました。

孟子の、気概や思いやりのある性質は、日本国民に親しまれるものでした。

しかし、その思想は、

日本の封建秩序を破壊しかねないものとも取られ、

長い間、焚書にされていたこともありました。

にもかかわらず、

孟子の教えは、侍の心の中で不変の地位を確立していました。

 孔子と孟子の教えは、若者たちの人生教科書、

大人たちの議論に於ける最高権威となったのです。

しかしながら、

「論語読みの論語知らず」という諺があるように、

この2人の思想を知っているだけでは、

尊敬を受けるどころか、冷笑され、蔑まれたものでした。

西郷隆盛は「書物の虫」と言い、

三浦梅園は

「野菜は青臭さを消すために茹でなければいけない。

 読書の少ない者は、少し学者臭く、

 読書の多い者は、更に学者臭い。どちらも困りものである。」

と言いました。

梅園の言わんとする所は、

知識は心にまで根付かせ、品性として見える様になって初めて、真の知識になるという事です。

ですから、単なる学者は、教訓をただ反復して出力するだけの機械程度にしか見られなかったのです。

重んずるべきはあくまでも「行動」でありました。

知識とは、それ自体が目的ではなく、

あくまでも目的を達成する為の手段としての位置づけだったのです。

 

 

 ◆ 武士道精神は、知行合一に集約される。

 

 武士道精神は、日常の一挙手一投足に具体的に反映されなければならないものとされてきました。

ソクラテスが明かしたようなこの考え方が醸成され、

儒学者の王陽明によって「知行合一」という格言が生み出されるに至ったのです。

 

 ここで、少し、王陽明についてお話出来ればと思います。

なぜなら、高潔な侍たちの一部が、王陽明の教えの影響を強く受けている為です。

また、クリスチャンにとっては、

王陽明の教えには、

新約聖書の教えに通じるものが数多くあるという事も、注目すべき点でしょう。

マタイによる福音書6章33節

「まず神の国と神の義とを求めなさい。

 そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」

という様な内容は特に、王陽明の教えの端々に表れているのです。

陽明学派の儒学者、三輪執斎は、

「天地と、全生物の神は、人心に宿り、人の心そのものとなる。

 それ故に、心は生き物と言え、常に光り輝くものである。」

「人間の本質・心の、精神の光は純粋で、他の意志に左右されるものではない。

 われわれの心にひとりでに沸き起こり、正しいものと間違っているものを示し、

 それが良心と呼ばれるものだ。これは天の神から出る光である。」

と言いました。

これらの内容は、英国の医学者アイザックペニントン氏などの、哲学神秘主義者などが残した言葉と似たような面があります。

 王陽明は、

人間の良心を、極端な超絶主義にまで昇華させ、

善悪判断のみならず、あらゆる精神的現象や物理現象の認識能力も、その良心が根源となっているとしました。

彼は、英国の哲学者バークリーや、ドイツの哲学者フィヒテに負けるとも劣らず、

観念論に於いてはその様な領域に達していましたが、

それ故に、人間の知力以外の存在を否定してしまっていた一面もありました。

王陽明の説いた儒学には、

その様な唯我論的間違いがあったとしても、

我が国日本に於いて、歴史上最も不安定状態にあった戦乱の時代に、

安全を保障するための、自己確立に於ける道義的価値を持っていたのです。

この様に、

侍たちが抱いていた道徳観念は、

絶対的な一つの真理に集約されるものでは無く、枝葉の教訓が寄せ集められて出来たものでありましたが、

これら道徳観念の集大成こそが、「武士道の芽生え」であったのです。

 

 フランスの学者ドラマズリエール氏は日本について、

この様な感想を述べています。

「16世紀半ばでは、

 宗教や政治、社会、すべてに於いて混乱しているのが日本でした。

 その様な中で、数々の内乱を乗り越えるべく、

 それぞれが自力で正義を貫き通す為に、

 精力的なリーダーシップ、素早い決断、貫き通す実行力、忍耐する力が

 日本人の中に芽生えたのです。

 日本でもヨーロッパと同じように、

 中世的な野蛮さから、

 好戦的ながら不屈の精神を抱く存在に生まれ変わったのです。

 これが、日本人の資質の根源となり、

 その精神性が16世紀の日本に於いて発揮された理由でした。

 文化の発達したインドや中国に於いても、人間の差は、

 それぞれの精神力や知識量の程度に左右されるとされていましたが、

 日本では、それに加えて、

 性格の独自性によって異なるという概念があったのです。

 個性とは、進んだ文明や民族の現れとも言えます。

 ニーチェの言葉を借りれば、

 アジアの人間性を表現すれば、平原と言え、

 日本とヨーロッパの人間性を表現すれば、山岳と言えるでしょう。」

この様に論評された日本人の民族性ですが、

これについて、次は我々日本人の視点からお話したいと思います。

まずは、「義」という内容です。

 

 


 

Copyright © 2022 日本の未来を考える会

本書はベルヌ条約により保護される著作物です


Ⓒ 2008-2023 日本の未来を考える会

 

日本の未来を考える会 北海道旭川事務局

メール:nmkinformation@gmail.com

FAX:0166-30-1391

 

当会は全国の各種企業法人個人からなる民間の団体です

政党、各種カルト宗教団体等との関係はありません

【安全保障について】日米地位協定・統一指揮権密約などで、自衛隊は米軍の指揮下にあり、日本に主権はありません。 また、日米安保(二国間条約)より上位の国連憲章:敵国条項によって有事の際、日本はアメリカに守られる保証もない現状があります。 竹島侵略の際の韓国軍の指揮権はアメリカにあったという情報も出ています。 安全保障を完全とする為には、根本的な解決が必要であり、まずは「自給自立国家日本」を立てる為の突破口となる「モデル都市」の実現です。