朗読音声<7分11秒>

第6章「礼」優しさ・尊敬心

 

 ◆ 愛は「礼」の真骨頂

 

 日本人の礼儀良さは世界でも有名ですが、

もし、その礼の動機が、

自分の品性を保つという保身的な感情によるものであれば、

それは浅はかな徳と言わざるを得ません。

あくまでも、礼は、

相手を思いやる、その内面的な心の発露として

自然体で外面的に表れるものであるべきものだからです。

もちろん、

社会生活に於ける、相手の地位を尊重するものでもありますが、

これについても決して、お金などの外面的な事ではなく、

どこまでも人格に於いて立派かどうか、心の価値を基準とするものなのです。

 礼の真骨頂は、「愛」です。

これは、一人ひとりの胸の内に秘められるものであり、

寛容、慈悲、人を恨まない、自慢しない、高ぶらない、憤らない、

自分の利益を求めない、相手を不快にさせない、

などの特性を持っています。

礼を最高の徳とする概念は、アメリカにもありますので、

これは、世界共通の概念であると言えます。

 

 私が、この礼に価値を置いている事は間違いありませんが、

徳目の中で最高の地位を持つものでは無いと考えています。

礼を深く研究すると、

更に高位の徳目と関係してくる事が見えてくるのです。

 礼とはそもそも、単独で存在するものではありません。

にも拘らず、礼だけがクローズアップされ、

今日、多くの偽物が出現している様にも見えます。

その違いを喩えるなら、音楽と音が同じではない、という様な所です。

心が籠っていない、形だけの礼は、

もはや、礼と呼べるものではありません。

 礼儀作法が、社会生活に於いて必須のものとして扱われる様になれば、

自ずと、形としての礼儀作法が独り歩きする様になる事は

簡単に予想の付く事です。

歩き方、座り方、挨拶の仕方、食事のマナー、

お茶をたてる事まで礼式に昇華されました。

アメリカの社会学者ヴェブレン氏は著書で

「礼儀作法とは、貴族生活の産物である」

と指摘していますが、まさしくこの通りです。

 

 ヨーロッパ人が、日本のあまりに細かい礼儀作法について、

人々の思考力を奪う愚かな文化と断罪している所をよく見受けますが、

私に言わせれば、

ヨーロッパ人たちの、絶えず変化する流行への、異常なまでの拘りようほど

馬鹿げたものでは無いとも思います。

 ただ、その流行について、

単なる見栄や気まぐれと括っている訳ではありません。

人間の、美を追求する探究心と見ているのもあります。

同時に、

日本文化に於ける細かい礼儀作法も、大切なものであると考えます。

それは、先人の試行錯誤が積み重なって培われた、

最も無駄無く、最短で目的を達成し得る、確立されたプロセスであるからです。

そして、この礼儀作法を守る事によって、

道徳的訓練もなせるという面もあります。

正しい作法を繰り返し練習し、体で覚える事によって、

それがひいては、身体的健康をももたらし、

それによって精神の安定までも得ることが出来るのです。

そして何より、

無駄の省かれた一連の礼儀作法は、最終的に

優美さをまとい、美しくある事が出来るのです。

この様なプロセスを通して、人格の向上を図る伝統文化があるわけですが、

果たして人間は、その真骨頂まで到達する事が出来るのでしょうか?

いや、出来ないはずがありません。

全ての道は、ローマ、イエスの教えに通じるのです!

 

 

 ◆ 茶道からなる侍たちの心の修養

 

 日常にありふれた行為が、芸術にまでなり、

更には精神修養にまで昇華されたものとして、

細かい礼儀作法の代名詞とも言える「茶道」があります。

壁画を描いた原始人と同じような芸術の芽生えが、

我が国日本に於ける、お茶を飲む行為で起こったのです。

喫茶は、ヒンドゥー教に於いて、瞑想と共に始まった風習である事からも、

お茶を飲む行為には、

宗教や道徳に於ける重要な要素となり得る品性を備えていると言えるでしょう。

 茶道で重要視される、平安な心や、静かな立ち居振る舞いは、

人間があらゆる局面に於いて、正しい判断を成す為に必要な第一要件です。

茶室を見ても分かるように、

そのデザインは、すっきりとしており、

掛け軸も、色彩は最低限にされており、構図で美しさを表現しています。

虚飾が排除される事は、宗教の本質とも通じるものであると言えます。

この様な環境で侍たちは、

残忍な争いや政治抗争の現実を忘れ、

仲間と共に平和と友情を培っていたのです。

茶道は侍たちにとって、

心の修養を行うことが出来る、かけがえのないものであったのです。

もちろん、茶道家の中には、

いま述べた事以外の所を重要視する方もいらっしゃるでしょうが、

しかしそれも、茶道の本質が、

精神的な所とは無関係という話にはならないかと思います。

 

 

 ◆ 相手と共に涙し、共に喜ぶ感情

 

 礼儀は、

美しい立ち居振る舞いを習得できるだけでも、

大きな意味があると言えるでしょうが、それに留まるものではありません。

礼儀は、相手に対する仁の心や、謙譲心が動機となって表れるものですから、

自然とその礼儀を通して、優しく美しい思いや行動が生まれるのです。

つまりは、

相手と共に涙し、共に喜ぶ感情の事です。

 

 これは、日本人にとっては、

あまりにも当たり前の道徳観念となっているのですが、

この心情によって展開される人間模様は、

時折、外国人からは、奇妙に思われます。

これは、在日20年の女性宣教師が、

奇妙な出来事と感じた事として、私に教えてくれた出来事ですが、

ある婦人が、日傘をさして炎天下を歩いている時、

知り合いの男性が通りかかったのですが、

その婦人は、日傘を下ろして、

男性と暑さを共にしながら挨拶を交わしているというのです。

日本人にとっては当たり前ですが、

外国人にとってこれは非常に奇妙に感じる事であり、

日本を評論した多くの外国人著者は、

これについて、日本に広く根付く

あべこべの奇妙な風潮だと簡単に片づけてしまっていました。

 別の視点で考えてみましょう。

日本で人に物を送るときは、

あなたの価値を考えると、それに相応しい物は無いので、

せめて想いだけでも受け取って欲しいという感情で

「つまらないものですが…」と、物を悪く言います。

一方アメリカ人は、

素晴らしくない贈り物を貴方にあげては失礼になる、という感情で、

物を贈るとき、その物を褒めたたえるのです。

この視点でとらえれば、

日本人の感情も、外国人の感情も、

突き詰めれば、相手を尊重するという点で、同じ所にあると言えます。

つまり、お互いに持つ前提の違いから、枝葉の事柄で揚げ足を取り、

その本質までもを頭ごなしに否定する事は、あってはならないという事です。

 

 


 

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