朗読音声<8分23秒>

第8章「名誉」捨て身精神の礎

 

 ◆ 恥じる心こそ、純粋な徳の礎

 

 名誉は、侍の代名詞と言っても過言ではないものであり、

それは幼い頃から厳しく教えられていたものでした。

実は、

名誉というキーワードは、日本であまり頻繁に使われていたものではなく、

主に、「名」「面目」「外聞」などと表現されていました。

これらの語句は、

聖書に於ける「神の御名」に通じるニュアンスがあります。

名誉が無ければ、それは獣に等しいという観念であり、

常に人として高潔に在らなければならず、

その名誉が汚される事を、最も恥と捉える感受性が育まれていたのです。

子供のしつけに於いても、

親が取る最終手段としての説得方法は、

「人に笑われてしまうぞ」「名を汚してはいけない」「恥ずかしく思わないのか」

という、名誉心に訴えるものでした。

そしてこの名誉心はそのまま、家族意識にも直結していたものだったのです。

フランス革命後の、無道徳な自由社会を生きた小説家、バルザック氏も

「家族のつながりが浅くなった事によって、

 人々は、名誉心という根本的な力を忘れてしまった」

と言いました。

 

 アダムとエバが、

聖書で象徴的に記される、禁断の果実を口にした事によって受けた罰は、

本質的には、産みの苦しみでも、茨の大地でもなく、

彼らが腰を隠した事、

愛情、性関係の破壊による「羞恥心の目覚め」であった事を見ると、

この、名誉心は

人類の道徳観念の中で最も早く芽生えたものでないかと私は考えています。

 カーライルが、

「恥る心は、全ての徳、善行、道徳心の畑である」

孟子が、

「羞悪の心は義の端なり」

と言ったことは、

まさしくこの事に通じる内容であると言えます。

 人類始祖が神に反逆してしまい、

震える手を抑えながら、イチジクの葉を腰に巻くその情景は、

執拗に私の胸に迫ってくるのです。

人類は未だに、

この堕落から始まった、神に対する羞恥心を覆い隠す事は出来ていません。

 

 侍たちにとって、

名誉心とは、まるでダモクレスの剣の様なものであり、

その執着は病的と言える程のものでした。

それによって、

短気な侍が、侮辱を受けたと思い込み、

些細な事が原因で刀が抜かれる悲劇が多発していたのです。

 ある町人が、侍に対して、

ノミが服に付いていると親切心で教えたところ、

侍は、ノミは畜生に付くもので、高貴な侍を畜生扱いするのは無礼だとして、

その町人を斬った、という話があります。

しかし、

この話は余りにずさんで、

同じ時代の空気に少なからず触れた私にとっては、にわかに信じがたいものです。

この様な話が広まった理由としては、

平民を脅かす為、

侍の特権の乱用が実際以上に誇張され噂になった、

侍の強い羞恥心についての一つの小説的表現

などが考えられると思っています。

この様な馬鹿げた一例をクローズアップして、

武士道全体を否定するのは、

カトリックの異端審問や、数々の虐殺を取り上げて、

聖書や、イエスご本人の教えを否定するのと同じ事です。

 ともあれ、

宗教的偏見にも、多少なりとも心の琴線に触れるものがあるように、

侍の異常なまでの名誉心に対する固執にも、

純粋な徳を構築する要石の様な性質を、私は感じるのです。

 

 

 ◆ 寛容と忍耐

 

 前述した、侍の名誉心への病的までな固執の暴走を食い止めたのは、

「寛容」と「忍耐」の精神でした。

些細な事で感情を露わにする者は、

短気な奴と、世間から笑われるものでした。

 

徳川家康の遺訓には、こういうものがあります。

「人の一生というものは、

 重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。

 急いではいけない。

 不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。

 心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。

 がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、

 「怒り」は敵と思いなさい。

 勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。

 自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。

 足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。」

 

また、松浦静山は、

寛容と忍耐力の観点で

織田信長を「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

豊臣秀吉を「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」

徳川家康を「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

と表現しました。

 

孟子も、

「あなたが裸になって私を侮辱しても、それが私にとって何だというのか。

 あなたの乱暴で私の魂を汚すことはできない」

「些細なことで怒るようでは君子に値しない。

 大義のために憤ってこそ正当な怒りである」

と説いています。

 

 これらの概念が基礎となって、

侍たちは、決して血気にはやって戦いに明け暮れていた訳では無く、

非常に柔和な、平和な境地に到達していた事が、

小河立所の

「人からありもしないことを言われようとも、反論などをせず、

 自分にまだ信用がないことを反省せよ」

熊沢蕃山の

「人が恨んでも自分は恨まない。

 人が怒ろうとも、自分は怒らない。

 怒りと欲を捨てる事で、常に心は平穏で、楽しめるものだ」

西郷隆盛の

「人間の道は、天地自然のものである。

 人間は天地自然の賜物であり、また、天地自然を本として生存しているので、

 天地自然を敬う事こそが人間本来の目的である。

 しかも天地自然は他人も自分も同様に愛されている為、

 自分を愛する心をもって、他人を愛さなければならない。

 これが天地自然の道であり、同時に人間の道である」

「人を相手にしないで常に天を相手にするように心がけよ。

 天を相手にして自分の誠を尽くし、決して人を咎めるようなことをせず、

 自分の真心の足らないことを反省せよ。」

という数々の言葉から

うかがい知ることが出来ます。

 

 これらの言葉は、イエスが明かした聖書の教えに通じるものがあります。

机上の空論ではなく、

実践に落とし込まれた、本質的なあらゆる道徳観念は、

巡り巡って、その根源である啓示宗教の教えに近づいていくのです。

 

 

 ◆ 捨て身の精神の礎

 

 しかし、

ここまでに述べてきた

名誉に至るまでのプロセスである、

寛容、忍耐の精神を理念体系として昇華した者はほんの一部で、現実には少なく、

名誉の本質が何かについてまで、

普通の侍の間ではあまり追及されていなかったのが現実です。

孟子などの言葉を学んでも、

机の上の勉強止まりで、実践にまで応用されていなかったのが、

特に若い武士たちの特徴でした。

 これによって、

ただの見栄や評判に過ぎないものが、

そのまま名誉と同一視される事もありました。

若者が求めるものは、知識や富ではなく、

結果物である名誉を得る事だけとなりました。

故郷に錦を飾れるまで、

子供は家に帰る事を、母も子供を家に迎える事を拒んだこともありました。

この様な経緯ではありますが、

侍たちは結果として、

若い頃に獲得した名誉は、

年を取るごとにその価値が大きくなる事を悟っていたのです。

 

 大坂夏の陣に際して、

徳川家康の息子、頼宣は、最前線への出陣を志願しますが、

許されず、後陣に配属されてしまいました。

戦いは勝利に終わったのですが、

その途端に頼宣は泣き出しました。

見かねた松平右衛門大夫正綱が、

「あなたはまだ若いから、今後もいろんな戦がある。泣くことはない」

と励ますも、

頼宣は、

「右衛門!14歳の頼宣は二度と無いのだ!」と叫んだというのです。

 この様に、侍の間では、

名誉を得られるならば、命は安いものだと思われていました。

命よりも大切なものを守る為ならば、死をも厭わない精神、捨て身の精神の礎が、

この様にして培われたのです。

 

 さて、

その、命よりも大切なものとは何なのでしょうか?

それこそが「忠義」であり、

これが封建制に於ける武士道の道徳律の要石となったものなのです。

 

 


 

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