朗読音声<11分6秒>

第5章「仁」他者への思いやり

 

 ◆ なぜ、「仁」は王者の徳と言われるのか

 

「仁」とはつまり、

愛や、寛容、哀れみなどを表す言葉ですが、

これは常に、徳の中で最高の地位を占めるものでした。

シェークスピアは、

「慈悲は王冠よりすぐれた君主である」と述べましたが、

まさしくその概念が、この日本に於いて深く浸透していたのです。

孔子も、

「君子はまず徳の充実に気をつけるのである。

 徳があれば国民が帰服してくる。

 国民が帰服してくると国土が保持できる。

 国土が保持できると、財物が豊かになる。

 財物が豊かになると流通も盛んになる。

 徳が根本であって、財物は末端なのである。」

「統治者の仁慈は万民に及ぶものであるが、

 逆に仁慈なき統治者の下では組織の活力は減退し弱体化する。」

と言い、

孟子も同様に、

「不仁な者で、他者の国を奪い取って諸侯となった者はあるだろう。

 しかし、不仁な者で、天下を取って天子となった例は、

 昔から今まで一度もない。」

と言いました。

二人とも、国民を統治するものとしての在り方として、

絶対必要不可欠な要素として「仁」を説いています。

「 仁とは人なり(吉田松陰)」

つまり、仁が無ければ、人でなしという事です。

 世界史を俯瞰してみると、

封建制では、力にものを言わせる武断政治によく陥りがちですが、

我が国日本に於いてその最悪の専制政治から国民が救われてきた理由は、

ひとえに、この「仁」の徳目があったからに他なりません。

被統治者が、自ら心身を無条件で統治者に捧げた時、

その社会には、統治者の強力な意思だけが残る事となります。

その結果、専制政治が絶対性を持つようになるのです。

ヨーロッパ人は、自国の歴史を棚上げして、

これを、東洋的専制と断罪しましたが、

日本の封建制と、ヨーロッパの専制政治は、全く別物であると言えます。

フリードヒ大王が

「王は国家の召使である」

と表向きに宣言したのと同じ頃、

日本に於いては、米沢藩主の上杉鷹山が、

「人民は国家に属しているから人民であって、

 自分勝手にしてはならないものである。」

と宣言していました。

封建制は、必ずしも暴政や圧政を生むものでは無い事が分かります。

日本の封建制に於ける、主君たちは、必ずしも全員が、

被統治者に対する義務があると考えていた訳ではありませんでしたが、

しかし、統治に於ける大前提として、

天や、先祖に対する責任感を心に堅く抱いていたのでありました。

主君は、全ての民にとっての父母として立っており、

民たちを、天からの授かりものとして捉える文化があったのです。

古代中国の『詩経』には

「殷の王が人の心を無くすまでは、

 天は彼らの前に現れる事が出来ていた」

とあります。

また、孔子は『大学』で

「有徳の楽しい君子は人民の父母のようなものである。

 人民が好むものは君子もそれを好み、憎むものは君子もそれを憎む。

 これを人民の父母と言う。」

と教えています。

 

 武士道では、世襲政治が根強くあります。

そうでありながら、アメリカの民主主義よりも、

日本の世襲による武士道観念の方が、より父権的であると言えます。

つまりは、

アメリカの民主制によって作られた専制政治は、

民が、心の伴わない服従を強いられる事がありますが、

日本の世襲政治では、

誇り高い従順、隷従でありながらもその中に高い精神性があるものと言えます。

この二つの明確な違いは、

「徳による統治」と、「絶対的権力による統治」と言えるでしょう。

 

 ロシアの政治家ポベドノスツェフ氏は、

「スラブ系ヨーロッパ人の、一人一人の人格は、

 社会の連合から形成され、

 最終的には国家に依存するものとなっている。」

と指摘しましたが、

この言葉はそのまま、日本に当て嵌まるものになります。

日本人は、

主君の統治を、欧米人よりそれ程重圧に感じず、

むしろ、父権的な愛情により、穏やかに感じるものでした。

ドイツの政治家ビスマルク氏は、

「絶対主義に求められる事は、

 公平、正直、義務感、精力的な行動、謙虚である。」

ドイツのコブレンツ皇帝は

「神より賜る王権は、神に対して大きな責任と義務を負うものであり、

 如何なる存在をしてもこれを免除する事は出来ない。」

と言いましたが、

これは日本の封建制の在り方と通じるものがあると言えます。

 

 

 ◆ 侍の慈悲「武士の情け」とは

 

 大義に生きる正義観念は、縦軸を重んじる男性的なものですが、

仁・慈悲は、横軸的な女性的優しさ、説得力を持つものであると言えます。

伊達政宗が、

「義に過ぎれば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる」と言った様に、

縦軸無く、横々の優しさに溺れる様な事はあってはならないと

侍の間では戒められてきたものでした。

愛ある者こそ勇者であり、

勇者とは、心優しい者である。

という観念は、決して珍しいものでは無く、

普遍的真理として広く普及しており、

これが、「武士の情け」という概念につながったのです。

 

 ここから分かる事は、

本質的には、侍の慈悲の観念は、

一般人の慈悲の観念と同じ性質であるという事ですが、

この概念が、命のやり取りにまで適用されているのが、

侍の慈悲・武士の情けと言えるでしょう。

 武士は、与えられた軍事的特権を誇りにしていながらも、

孟子が説く「仁」の思想に深く同調していました。

孟子は、

「仁が不仁に勝つ事とは、水が火に勝つ様なものである。

 しかし、昨今、

 仁を行う者は、わずか盃一杯くらいの水しか使わずに、

 車いっぱいに積んだ薪の火を消そうとする様なものとなってしまっている。

 それでは火が消えるわけがない。

 これによって、仁は不仁に勝てないものと決め付けてしまう。

 この様な事をする者は、

 不仁に味方するも甚だしい者と言っても過言ではない。

 このような人は、いずれその少しばかりの仁も無くしてしまうだろう。」

「他人のことを痛ましく思って同情する心は、

 やがては人の最高の徳である仁に通ずるものとなる。」

と説きました。

 これらは、

ヨーロッパの思想よりも急先鋒を行く

究極の人間愛を説いた思想であると言えるでしょう。

これまで東洋の倫理観念については、多くの誤解を生んできましたが、

東洋の哲学には、ヨーロッパ文学の最高位の格言と通じる品性を持っている事を

ご理解頂けた事と思います。

 

 

 ◆ 武勲までも捨て、慈悲に生きた侍の涙の物語

 

 ここまでで述べてきた、侍の慈悲・武士の情けが

武士社会に於いて、具体的にどの様なものであったのか、

一つのお話をご紹介したいと思います。

 

蓮生法師(菊池容斎・画)-「行住坐臥、西方に背を向けず」

 

 この、馬に後ろ向きに乗る一人の僧侶の絵は有名かと思いますが、

この僧侶は、かつて、その名を呼ぶだけでも恐れられる程の武士で、

熊谷直実という方です。

1184年、日本歴史の中で有数の激戦であった、須磨の浦の戦いで、

直実は、一人の敵と一騎討ちを挑み、

相手を組み伏せました。

この様に、相手と正々堂々と剣を交わす事が出来なくなった場合の作法として、

自分より身分の高い場合、あるいは力量が同程度であれば

血を流さずに終わる、というものがあったのですが、

その兜をはぎ取ると、

相手は、まだ若い平敦盛でした。

直実は、

自分の息子と同年代の平敦盛の姿を前にして、どうしても殺す事が出来ず、

どうか、味方に見つかる前に逃げてくれる様に懇願しますが、

平敦盛は、互いの武士としての名誉を守るために、自分を斬る様に頼むのでした。

とうとう、直実の味方の軍勢が迫ってくると、

やむにやまれず、「一念阿弥陀仏、即滅無量罪」と叫びながら

平敦盛を斬ったのです。

この事があって、直実はこの戦いの凱旋後、一切の武勲と名誉を捨て、

出家し、念仏行脚に明け暮れる余生を送ったのでした。

 

 この熊谷直実の話について、

結局は、若き平敦盛が殺されてしまった事など、様々な欠点を指摘する方も

いらっしゃるとは思いますが、

このお話は、

たとえ悲劇的な結果は同じであっても、

仁の心が、どの様にして、血生臭い侍の社会を、

人間らしく彩ったものであるかが分かる内容となっていると思います。

 この様な点を踏まえれば、

キリスト教が伸びなかった我が国日本に於いて、

なぜあれだけ急速に赤十字運動が定着したのかについても

説明がつくと思います。

我々日本人は、

世界がようやくジュネーブ条約などの人間愛に目覚めるよりも遥か昔から、

敵兵を救助する文化が、当たり前の事として定着していました。

 

 

 ◆ 侍たちの、詩人としての一面

 

 さて、ここで

侍たちの人間性を探るために、侍と音楽のつながりについても

お話ししたいと思います。

 

 高い士気と、スパルタ的な訓練で有名な薩摩藩に於いて、

若者が音楽を愉しむのは、よく見られる光景でした。

これは、血を騒がせるようなラッパと太鼓の激しいものではなく、

優しくもどこか儚い、琵琶の調べでした。

 アルカディア憲法では、

過酷な天候によるストレスを軽減する為に、

30歳以下の全青年への音楽の稽古が義務付けられていました。

古代ギリシャ歴史家のポリュビオス氏は、

このお陰で、アルカディア山脈地域に残虐な文化が定着しなかったのではないか

と分析しているようです。

薩摩藩の文化にも、これと繋がる意義があったと言えます。

 

 我が国日本に於いては、

薩摩藩のみならず、全国的にこの様な文化が定着していました。

それが「詩歌」です。

 四十七士の大高忠雄の逸話が、一番分かりやすいものだと思います。

彼は俳句の稽古を進められ、

そこで「鶯の声」というお題を与えられましたが、

それに反発し、

「鶯の初音を聞く耳は別にしておく もののふ かな」

という句を投げ返しました。

それでも師匠は、荒々しい彼を励まし続け、

ある日、彼は詩歌の世界に目覚め

「もののふ の鶯きいて立ちにけり」

という句を歌ったのです。

 侍と詩歌は非常に密接なものでした。

戦で命を落とした侍の持ち物から、辞世の句が出る事はよくある事でした。

ヨーロッパに於いては、キリスト教がある面、

戦場に於ける、他者への愛情を培うものとして機能していたと言えますが、

日本に於いては、

音楽や、文学を愉しみ、愛する心が、その役割を担ったのです。

 

 これらの文化が、思いやりの心を育み、

相手を尊重する心、謙虚さ、丁寧さの概念が生まれ、

次項でお話する「礼」に繋がるものとなりました。

 

 

 


 

Copyright © 2022 日本の未来を考える会

本書はベルヌ条約により保護される著作物です


Ⓒ 2008-2023 日本の未来を考える会

 

日本の未来を考える会 北海道旭川事務局

メール:nmkinformation@gmail.com

FAX:0166-30-1391

 

当会は全国の各種企業法人個人からなる民間の団体です

政党、各種カルト宗教団体等との関係はありません

【安全保障について】日米地位協定・統一指揮権密約などで、自衛隊は米軍の指揮下にあり、日本に主権はありません。 また、日米安保(二国間条約)より上位の国連憲章:敵国条項によって有事の際、日本はアメリカに守られる保証もない現状があります。 竹島侵略の際の韓国軍の指揮権はアメリカにあったという情報も出ています。 安全保障を完全とする為には、根本的な解決が必要であり、まずは「自給自立国家日本」を立てる為の突破口となる「モデル都市」の実現です。