朗読音声<8分1秒>

第7章「誠」誠実に生きる

 

 ◆ 武士の約束事に契約書は要らない

 

 伊達政宗が、

「礼も、度が過ぎるとへつらいになる」と言ったように、

誠実さの無い、芝居じみた礼は、

最早、礼と言えるものではありません。

その誠実さについて、菅原道真がしたためた

「心さえやましくないならば、ことさら神に祈らなくても、

 おのずから神の加護があるであろう。」

という言葉は、ヨーロッパの如何なる文学をも凌ぐものであると言えるでしょう。

孔子に至っては、

「一切は誠から始まり、誠に終わる。

 誠は全ての根元であり、

 誠がないとすれば、そこにはもうなにものもありえない。」

と言って、

誠を、アルファとオメガとも表現された「神」と同一視したのです。

 

 嘘をつく人、誤魔化す人は、卑怯者と見做され、

侍はこれについて、

商人や農民よりも純度高く問われていました。

「武士の言葉」はそのまま、「真実」を意味するものであったのです。

その重みある言葉、信頼により、

侍同士の約束事は、通常では契約書なしに交わされたのでした。

契約書を書かされる事は、侍にとって侮辱的行為ですらあったのです。

侍の逸話の中には、

二言、嘘を発した事で、死を以て償った話がいくつもあります。

 この様に、約束とは

侍にとってはあまりにも重みのある事柄ですから、

むやみやたらに宣誓するのは、良くないものと認識されていました。

今日、多くのクリスチャンが、

マタイによる福音書5章33節~37節

「また昔の人々に

 『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』

 と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

 しかし、わたしはあなたがたに言う。

 いっさい誓ってはならない。

 天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。

 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。

 またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。

 また、自分の頭をさして誓うな。

 あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。

 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。

 それ以上に出ることは、悪から来るのである。」

と指示されているにも関わらず、

絶えず破って、自己顕示欲に浸っている有様とは、真逆であると言えるでしょう。

侍の誓いは、

お戯れな形式主義でもなく、見栄っ張りの不敬虔な祈りでもなく、

時には、その覚悟の表わしとして、血判を押す程だったのです。

 

 一方で、

あるアメリカ人が

「日本人は、

 嘘をつく事と、失礼を行う事とを選ばなければならない状況となれば、

 迷うことなく嘘をつくだろう」

と言いましたが、

これは一面的には正しいのですが、間違っていると言えます。

それは、

ここで言われる「嘘」のニュアンスについてです。

日本で意味する嘘とは、

「真実以外の全て」というものであり、

アメリカの詩人ローウェル氏が

「ワーズワースは、事実と真実の区別が付かなかった」と言ったのですが、

まさしく、この区別が付いていないという事です。

※ 事実:実際に起こった事柄

  真実:事実に対する偽りのない解釈

例えば、日本人は、

「私が嫌いですか?」「貴方は調子が悪いのですか?」

と問われれば、

躊躇うこと無く嘘をつくのです。

しかしながら、失礼にならない様にする為では無い嘘というのは、

虚礼や、欺瞞的な甘言と見做されています。

 

 

 ◆ 武士は何故、お金の計算を嫌うのか。

 

 侍の誠を語るに当たって、

商業に於ける道徳観念に触れるのも、的外れでないでしょう。

日本人の商業道徳は、

開国以来、他国との貿易に当たって、

残念ながら、わが国の評判を落とすものでありました。

しかし、

この点を根拠に日本人全体の道徳観念を否定する前に、

一度共に、冷静に考える事が出来れば、

お互いに将来の安心を得られる事になるのかもしれません。

 

 各種職業の内、

商業程、侍の精神とかけ離れたものは無く、士農工商の順番で見ても明白な様に、

分類上、高利貸しと同様に、最下位として位置づけられていたのです。

武士は、素人農業に携わる事はあっても、

この、お金に関する業務は嫌っていたのです。

貴族を商業などから切り離すのは、

権力者への富の集中を防ぐ得策であることは、明白であり、

ローマ帝国の崩壊の要因は、この策を取れなかった為であると

『西ローマ帝国最後の時代』を著したディル教授は言っています。

この様な背景があり、

封建制に於ける日本では、商業道徳が発達しきれなかったのです。

 そして、

お金を扱う商業や高利貸しが、社会から侮蔑される地位に置かれ続けると、

必然的にその職業に携わる者たちの品格が低くなっていくのみならず、

その様な人々がこれらの職業に就くようになるのは、

ある面当然と言えます。

 

 勿論、封建制に生きた商人たちにも、

互いで取り決めた最低限の道徳観念はあり、

それに基づいて取引を行っていました。

組合や銀行、保険、為替、手形などの制度が整備されていた事からも

それは明白です。

 ですが、

先述した様な、社会から与えられた身分に甘んじていた事は否めず、

これが、日本開国後に、

外国人が来る港に、無節操な商人が一儲けを企んで集まった原因となったのです。

この様な社会情勢もあって、

まともな商人が港に支店を開く為に幕府に申請しても、

その人を守る為に許可されなかった事すらありました。

 

 武士道の道徳観念では、

商業道徳の退廃を防ぐ事は出来なかったのか、

その点についてお話したいと思います。

 

 

 ◆ 時代の流れに翻弄された侍たち

 

 日本は開国後まもなく、封建制が終わり、

特権を失った侍たちには、代わりに公債が与えられ、

商業の道へ進む方向性となりました。

 しかしながら、

誠を極限まで尊ぶ侍たちには、

狡猾な商売で金儲けする仕事など、とても務まらなかったのです。

侍たちの、ビジネス失敗談の数々は、泣くに泣けないものがあります。

武士道の道徳観念そのままでは、

金儲けの世界では生きていけない事に侍たちが気づくのが

時間がかかりすぎてしまい、

気づいた頃にはほとんどの侍が無一文だったのです。

 

 封建制の日本に於ける産業、政治、哲学の中で、

道徳観念が成長出来たのは、哲学の分野に於いてのみでありました。

開国後、

封建制の元で停滞していた商業も、近代産業の発達により、

ようやく、商業に於いても道徳律が成長する様になったのです。

類は友を呼ぶのであれば、

正直者には正直者が集う、これこそが真の財産であると言えます。

侍たちは、損得勘定では無い、純粋な「誠の心」で正直さを貫いていましたが、

商人は、その正直さを、近代産業の環境によって盛んになった商取引で、

巡り巡って自分が損しない為に、道徳律を持つようになったのです。

 

 誠の精神によって生み出される、正直さについてですが、

例えば約束手形などの末尾に、

「この借金を返せなかったら、人前で嘲笑されても構いません」や、

「約束を守れなかったら、バカ呼ばわりされても何も文句ありません」

という様な言葉が付け加えられる文化があった事から、

誠・正直である事と、名誉を守る事は、同質のものであった事が分かります。

ラテン語とドイツ語の「正直」の語源が「名誉」である事からも、

世界共通の概念であると言えます。

 次に、

この「名誉」が、武士道に於いてどの様なものであったのかを

お話ししたいと思います。

 

 


 

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